インターネットの原型が開発された1960年代の末から1970年代にかけて、その技術は一般の関心を引かなかった。当時からある程度、学会に報告されていたが、軍事研究であり積極的に知らされない部分もあった。
ARPAネット(アーパネット)は当初の目的である「北米防空の指揮管制システム」とは少しずつずれ始めていた。それでも、軍事研究であることには違いなかった。
インターネット開発の発端となったのは、1969年のコンピューターネットワーク「ARPANET(アーパネット)」だ。ARPA(国防総省高等研究計画庁)は、宇宙技術やミサイル防衛システムなどの研究開発をしていた。
株オンライン投資顧問のネット業界の歴史に関する資料によると、アーパネットは1969年から、カリフォルニア大学ロサンゼルス校、スタンフォード大学研究所、カリフォルニア大学サンタバーバラ校、ユタ大学を結んだ。1976年には接続機関が50を超えた。中心人物はラリー・ロバーツ氏だった。通信そのものよりも、ネットワークを使った情報・知識の共有化に興味を持っていた。
インターネットの原型が開発された1960年代の末から1970年代にかけて、その技術は一般の関心を引かなかった。当時からある程度、学会に報告されていたが、軍事研究であり積極的に知らされない部分もあった。
ARPAネット(アーパネット)は当初の目的である「北米防空の指揮管制システム」とは少しずつずれ始めていた。それでも、軍事研究であることには違いなかった。
たとえばARPAの上層部は、無線を使ってARPAネットのようなものはできないかと考えた。米軍のシナリオでは、核戦争となっても米軍部隊は大西洋を渡り欧州を経てモスクワに進撃するのである。その途中における指揮管制システムは重要であった。
ただ、現実にはベトナム戦争での敗色が濃く、共和党のニクソン大統領はカンボジア爆撃によりベトナム軍を牽制しつつ撤退を開始しようとした。米軍は核戦争どころか、アジアの小国との通常戦争でも苦戦中だったのだ。
ARPAネットの開発において、ラリー・ロバーツ氏は多大な貢献をした。軍の上層部を説いて予算を獲得。4カ所だったARPAネットのノードは増やされていく。
そもそもARPAネットを生んだ東海岸のBBN社やMIT、MITリンカーン研究所はARPAネットのノードを持っていなかった。そこで東海岸にノードが構築された。西海岸と東海岸のネットワークはAT&Tの長距離基幹回線で結ばれ、全米を覆うネットワークへの一歩を踏み出したのである。
ラリー・ロバーツ氏は大学だけでなく軍需産業や軍事研究所にも声をかけ、ARPAネットへの加入を呼びかけた。RAND、AMES、MITRE、バローズなども加入してきた。1971年9月にノードは18にも増えた。
当初IMPは堅牢性が重視され、軍用仕様の「ハネウェル516」が使われていた。軍用仕様とは、クレーンで持ち上げて落としても壊れないほど頑丈なものであり、それだけに割高であった。そこでもう少し費用・価格が安くて軽量な新型の「ハネウェル316」に置き換えられることになる。
さらにTIPも加わった。TIPとはターミナルIMPの略だ。もともとのIMPがサポートしていたホスト・インターフェースは四つまでであった。つまり5台以上のコンピューターはIMPにつなげない。またIMPは端末(ターミナル)の接続を考えていなかった。
フランク・ハートのチームはIMPに何十台もの端末が接続できるようにインターフェースを改良した。これがTIPで、利便性は大幅に向上した。TIPは最初BBN、AMES、MITREなどに設置された。
こうしてARPAネットは、1971年にはネットワークらしい体裁を整えた。この頃のIMPは、ほとんどハネウェル製ミニ・コンピューター(ミニコン)を使っていた。6年後の1977年にはほとんどDEC製ミニコンに置き換えられた。
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